新型コロナが 人と人とのつながりを気付かせてくれた
新型コロナが
人と人とのつながりを気付かせてくれた
1.お一人様はもともと多かった
人と人とのつながりが希薄になったのは、今に始まったことではない。OECD諸国の間で、日本は、他人と付き合いのない人の割合がトップであり、15歳の子どもの3割が孤立を感じているそうだ。
日本は、戦後の皆が貧しかった時代から急速に経済発展をとげ、総中流社会になったとされた。だがそれはバブル崩壊以前の話で、その後の停滞は今も続いている。
停滞は社会に変化をもたらした。かつては、物質的豊かさと利便性を必死に求め、皆が自分の家を建て自家用車を持ったが、今は無用な車は手放し、家を建てずに借家で暮らす人もいる。
立身出世よりも、趣味や娯楽に時間をついやし一人ですごす時間を重視する。安いものを買いあさるのではなく、欲しいものだけを求める。近所づきあいも親戚づきあいもわずらわしいものになった。核家族化は家族関係を変化させた。地域とのつながりも希薄になった。
人との付き合いは、個人の自由や権利を束縛するものである。意見が対立すれば、互いにいがみ合い傷付けあうことになる。それなら付き合わない方がよい。自由人は、わずらわしい人間関係から解放されることを望んだ。居場所は必要なかった。
そこへ、新型コロナがやってきた。感染拡大は、他人と接触をしないことをむしろ求めてきた。望む、望まないに関らず孤立を強制してきた。
新型コロナの感染拡大は人の動きも街の様子も一変させた。営業自粛で商店のシャッターは降ろされ、イベントはことごとく中止となった。外出自粛が叫ばれ人は街へ出なくなった。
必要なものを求めてスーパーやコンビニに行っても、おカネのやりとりは透明フェンス越しだ。散歩もジョギングもマスクを付けて一人でやる。テレビでは一人でできる運動動画がさんざん流される。
用事で電車に乗るときは、乗客の少ない車両を探す。歩行中も人の多い場所を避ける。誰もが「人を見たら新型コロナ感染源と思え」と、知らぬ間に洗脳された。皆が他人との接触を避けるように教え込まれた。
2.新型コロナが、人とのつながりを再認識させてくれた
バブル後の日本は、他人との関りをわずらわしいものと教えてきた。そう信じてきた人たちに、新型コロナは教えてくれた。人は、ほんとうは人とのつながりを求めている。
人とのつながりをわずらわしいと勘違いさせたのは、何だったのか。
資本主義はもともと勝者だけが生き残る競争を原理とする。マネー資本主義の優等生たちは、生き残るために奴隷労働者につらい仕事を効率よくさせる。 競争原理と効率優先は、資本主義とは切り離せない。ところが、この二つが他人の存在をわずらわしいものにする。
資本主義の矛盾が顕在化し、社会全体に大きな変化が起きていた。物があっても人は幸福にはなれないと何となく気付いた。
旅行をしても、名所旧跡を訪れるだけでなく、人とのつながりを求める。趣味やスポーツの教室に通い出す。SNSで誰かとつながろうとする。シェアハウスもカーシェアも盛んだ。
人とつながって安心していられる場を「居場所」という。孤独に追い込まれた人たちはもともと「居場所」を捜し求めてきた。
読書においても音楽、芸術においても、人は、作者や演奏者とつながっていると感じたときに感動が生まれる。
孤独死、独居老人、ひきこもり、ホームレスなどの社会問題が報道されるたびに、人と人とのつながりの大切さに気付いていた。新型コロナによる孤立の強制は、とどめを刺すように、改めて人は一人では生きられないことを思い知らせた。人と人とのつながりに気付いていなかった人にも気付かせた。
3.人と人とのつながりは、誰にでも必要だ
これまで、競争社会の落ちこぼれは社会から排除されて来た。障がい者や高齢者など社会的弱者は、社会から排除され居場所はない。
では、競争社会の優等生たちには居場所があるのだろうか。あるようによそおうが、実のところは彼らも寂しい。
競争社会の優等生たちにとっては、儲けることが目標だ。客を相手に不要なものをいかにして買わせるかの競争を勝ち抜いてきた。ウソに気付かせないままウソを通すためのスキルを競い合ってきたともいえる。
競争は、相手が勝てば自分は負ける。成功者は落ちこぼれを見下す。苦労して手に入れたものは、何としても守るし、自分の権利は主張する。損害を被ればきちんと主張して取り戻す。決して損することはしない。
近代ヨーロッパがつくり上げた利害意識というものは、これらを当然のこととしてきた。日本社会は、それを美化し取り入れてきた。
人とのつながりは信頼が前提となる。だが、自分の権利ばかりを主張していたのでは信頼関係が築けない。自分を主張すれば、相手の立場がなくなる。他人が得すれば自分は損をする。ヨーロッパ発の競争原理や利害の主張から、心の交流が生まれることはない。
どうすればよいか。
スローテンポ書店は懇話会を開催し主張している。
居場所はみんなに必要だ。それは、誰もが社会と関わるようになることだ。だれもが自分の考えを述べ、他人の意見を聞く。そういう場がどこでも求められる。
意見が対立するときは、権利や立場の主張をやめ、とことん話し合って、互いの共通課題を見つけることだ。共通課題の解決のために話し合えば必ず互いの理解に到達する。経験を重ねればコミュニケーション能力も向上する。失敗したら逃げるのではなく、反省し工夫と努力で乗り越える。
自分の会社しか知らない人間もいろんな人とつながれば、自分の世界が広くなる。人とのつながりは自分自身を限りなく成長させる。若者に限らず高齢者も含め、人はいつも成長する。人は生まれてから死ぬまで、人とのかかわりの中で成長するのだ。
効率優先の大企業にとって、客は一人の消費者でしかない。客は、低価格を求めるのか、流行を求めるのかなどに分類され、計算されつくされた顧客対応プログラムに従って戦略が決められる。効率の悪い客は巧みに切り捨てられる。スケールメリットを活かすために、企業買収を繰り返しさらに巨大化していく。そこには、人と人とのつながりがない。
誰がつくったのかわからない商品を使うのは不安だし、安心できるものだけを口に入れたい。商品についての疑問を売る側にぶつけたい。
大型点よりも小さな店で、店主と話を交わしながら買い物をしたい。そこには人と人とのつながりがある。消費者と売る側とが信頼関係でしっかりつながっている。
競争社会だから、企業は効率優先のために大規模化していった。そこでは人と人とのつながりが犠牲にされてきた。
競争社会の優等生たちは、なおもうそぶいている。「コロナ後は、テクノロジーの進歩で無人店舗や自動運転が実現する。病気の診断も介護もロボットがやる。」
彼らはいったい何が望みなのだろう。実現したら店員、運転手、医師、介護士はどこへ行くのだろうか。誰が喜ぶのだろうか。
これからは、効率よりも人と人とのつながりが求められる。大手よりも小規模が求められる。人と人とのつながりを生かして、生産、流通、顧客サービスに至るまで、小規模であることは消費者の願いをかなえる。生産者から消費者まで人と人とのつながりが見える。そこには信頼が生まれる。
多様性を認める社会では、人を分断するのではなく、いろんな領域の壁をなくし、子どもも高齢者も、障がいのある人もない人も、市役所の職員も住民も、みんな混ぜこぜにして、人と人とがつながりやすくしなければならない。いろんな人がいるからいろんな意見が出、それが発展につながる。
地域が悩むシャッター通りの問題も、駅前が駐車場だらけになる問題も、空き家の問題も、いろんな人が知恵を出し合えば、必ず解決策は出てくる。大切なことは人と人とがつながることである。
駅前ビルの空きスペースを利用して、一箱古本市をやろうではないか。毎週土曜日など定期的にやれば、きっと人と人とがつながる場になるだろう。
さあ、小山のみなさん!
新型コロナが収束したあかつきには、勇気を出して人と人とのつながりの場を築こう。そのために、いまから準備しよう。
一箱古本市実行委員募集中!
詳しくはスローテンポ書店まで。
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