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『タイ・ビルマ国境の難民診療所 ――女医シンシア・マウンの物語』宋芳気著 松田薫訳☆☆☆★★

タイ・ビルマ国境の難民診療所

  ――女医シンシア・マウンの物語』

    宋芳気著 松田薫

    新泉社2010年 1800円+税

    ☆☆☆★★

 

 

この本の著者は、台湾人フリーライターだ。慈善活動をする台湾のある財団から、タイ・ビルマ国境にある難民診療所と女医シンシア・マウンのドキュメンタリー執筆を依頼され、現地を訪れた。

そこで著者は、シンシアの人柄にひかれ、少数民族が置かれた状況や診療所の厳しい運営を広く伝えようとした。翻訳者は当時中国語を学ぶ早稲田の学生だった。

8年前の出版だが、タイ・ビルマ国境や難民診療所の困難な状況はその後も変わっていない。

アウンサンスーチーの政権がミャンマーを主導するようになってからも、ロヒンジャーを排斥するなど、小数民族排外政策は変わっていない。国際社会も、少数民族問題を解決しようとは思っていない。クルド人やパレスチナ人たちの状況を見てもわかるように、少数民族問題は全てが大国の意思で動く。

 

難民診療所の女医シンシア・マウンは、彼女自身がカレン族であり、国家による不当な仕打ちから命からがら逃げてきた難民である。

国境地帯ではカレンの村人や武装勢力に助けてもらった。村は政府軍によって次々と焼かれ、村人たちは難民になって行く。だから、カレンの戦士や難民たちは、彼女にとっては運命を共有する関係なのだ。いわば兄弟であり家族なのだ。

ようやく避難所に逃れても、病気や怪我の治療をしてくれるところはない。タイの病院は受け入れてくれない。自分は医者だ。どうしても必要だと思い診療所をつくった。

避難民や診療所にやってくる人たちには住む家がないから、住める場所をつくる。人が住めば子どももいるし、新たに生まれる子もいる。必要に迫られて学校もつくる。診療所で出産の世話をすると、子どもを残していなくなる女性もいる。残された子も育てる。

しかし、それら全てが、必要に迫られての一時的な対応だった。シンシアをはじめ難民診療所に集まる人たちの本当の願いは、ふるさとに戻り、家族と共に平和に暮らすことだ。シンシアはその中の一人に過ぎない。

「困っている人を慈悲の心で助けてあげたい」のではない。余裕のある人から恵まれない人々への、施し同情でもない。彼女は、偶像化されたマザー・テレサでもないし、もう一人のアウンサンスーチーでもない。

欧米や豊かなアジアからやって来るボランティアや支援者たちは、そのことがわかっていない。残念ながら、著者も翻訳者も理解していないように思われた。

 

豊かで自由な国で暮らす人たちは、自分自身に対して納得ゆく人生を歩みたいと願う。医師も医療従事者も、ゆとりがあれば自分は何をすべきかを考える。

考えた末に、現実を受け入れ御用医師や現実社会に順応するスタッフになるものもいるし、改革に動くものもいる。余裕の範囲でボランティア活動に参加するものもいる。

近頃は、ボランティア活動が美化されもてはやされている。高齢者の認知症対策でも、成人や若者のひきこもり対策でも、政策立案する側にとって、もっとも手っ取り早くて効果を上げるのが、ボランティアだ。しかもボランティアは、予算配分不要で、呼びかければ率先して応じてくれ、意欲的に仕事をする。細かなことは問題にしないしクレームも出ない。

学校でもボランティア活動を社会活動として評価し、個人評価に加算する。企業も団体もキャリアとして認めるようになったから、若者たちもキャリアアップのためにボランティア活動に参加するものもいる。この社会の優等生は、ボランティア活動に参加することになっている。

だが、よく考えてもらいたい。

ボランティアの考え方は、余裕のある人から困っている人たちへの施し思いやりという発想からきている。豊かな人間から貧しい人間への施しというのは、金持ちが乞食に恵んでやるのと同じである。そう考えれば、ボランティアの本質がわかりやすい。

日頃からボランティアの問題点が気になっていたが、この本で紹介されるボランティアについても同じものを感じた。誰も問題視しないので、その問題点をかいつまんで挙げてみよう。

 

ボランティアの問題点

 

    人間に上下を付ける

施す側は立派な人間であり、受ける側は自立不能の哀れな人間だと見る。だから施しが必要だと見る。

従って、慈悲施しには人間対人間の関係はない。殿様と農民、王様としもべ、主人と奴隷、金持ちと貧者など、人間関係を対等な関係ではなく上下関係にしてしまう。そうした上下関係を、幸せな人と困っている人、幸運な人と不運な人にまで持ち込んでしまう。

 

    施す側が主観的に評価する

必ず「受ける側が喜んでいる」、「社会的意義は大きい」と評価される。極端になれば自己満足に終わってもかまわないのである。

 あくまで施す側が主体である。施す側からの一方的となり、受ける側の意思は尊重されない。施す側は「こうやってあげる、いやならやめる」と言えばよい。受ける側も、少しでもプラスになるなら、文句や苦情を言わずに感謝の言葉を返す。

 

    施す側の都合で決まる

都合が悪くなれば中止や変更もある。気に入らないことがあれば平気で中断される。受ける側に文句を言わせない。

 

    社会が担うべき仕事をあいまいにする

本来なら、国や国際社会などの社会が担うべき仕事をあいまいにしてしまう。美談の影に社会の罪や責任を覆い隠す。

災害救助も難民支援も、本来なら国家あるいは国際社会がやるべき仕事である。ここでいう国際社会とは、国家間の付き合いのことである。

ところが、国や国際社会のような大きな組織体は、意思統一に時間がかかり融通性が利かないから、待っている間に被災者や難民は犠牲を強いられる。そういうときこそ、本来のボランティアの出番である。だから、ボランティア活動とは、本来は国や社会がやるべきことを一時的にやっているのである。

しかし、いたずらにボランティアを賞賛し、ボランティアに期待することは、本来は国や社会がやるべきことをあいまいにしてしまう。

活動団体は活躍の場を確保したいし、実績を積みたいから、一時の活動が永続的になっていく。国や社会も、改めて組織作りも要らないし、予算も不要なのだから楽な道を選択する。「支援団体に任せているが、きちんと指導している」といって、すっかり任せきりになる。

 

さて、近頃は資本主義の優等国では、ボランティア活動がすでに社会の枠組みに組み込まれてしまった。①から④の全てが資本主義社会の支配層にとっては都合がよい。特に米国では、ボランティア活動を賞賛し、社会的存在意義を強化しようとしている。

社会に害毒をまき散らしてぼろ儲けした企業であっても、ボランティア活動を支援すれば優良企業のレッテルが貼られる。その活動の内容とは、地球温暖化防止活動やパラリンピック支援活動など、誰にでもわかりやすいものばかりだ。

日本は常に米国に追随する。国や自治体は、政策決定のときに最初からボランティアを当て込んで計画に組み込んでいる。東京オリンピックや原発事故被災者支援を見ればよくわかる。地震や豪雨による災害救助、被災者支援でも、ボランティアを当て込んでいる。

放射線による汚染地域では、作業者の被曝管理や被曝保障をはじめ、難しい手続きや許可が必要になるが、ボランティアは全て自己責任で、活動団体や国は社会的責任を負う必要がない。人件費もかからないから、ありがたい存在なのだ。

アスベストを使用した古い建物の瓦礫処理は、本来なら専門業者に高額で依頼しなければないところを、ボランティアにやらせれば、タダでできるし、ボランティアの善意を掲げれば誰も文句を言わない。

こんなにありがたい存在なのだから、国や自治体はどんどんボランティアを利用する。

東京オリンピックにおけるボランティア利用は、給料も交通費も住居も提供しないのだから、予算削減に相当貢献するだろう。期間中に大規模停電でも起きたら、オリンピックも都心も大混乱に陥るだろうが、ボランティアのせいにすることも出来る。

 

 さて、この本に戻る。

難民診療所や学校の運営が苦しいのはよくわかる。

海外からのボランティア参加者が、少しでも役に立とうと寄付金を集めて届けることは、よいことに決まっている。

だが、彼女やそこにいる人たちが本当に望んでいるのは、ふるさとで家族そろって平和に暮らすことだ、ということを忘れてはならない。

人と人とを対等に捕らえるなら、外国人が考えるべきは、自分の置かれた立場から自分の問題として考えることだ。それは、国際社会の一員として問題を見つめ、問題解決のために自分は何をすべきかを考えることだろう。

現政権が、カレンを独立国として認めるか、あるいは自治権を認めるよう、自国政府や国際社会に働きかけることではないだろうか。

国際ニュースでは、現在もミャンマー政府によるロヒンギャー排斥が問題視されている。この国の少数民族に対する対応はおかしい。それを批判することを何故やらないのか。

それを抜きにした支援やボランティア活動は、ややもすると現状肯定につながりかねない。

 

シンシア・マウンはあまり語らない。それは、語ってもわかってもらえないからであろう。

彼女の願いは、当然、カレン人たちが不当な扱いを受けることなく、ふるさとで家族と共に平和に暮らせるようになることだ。ボランティアや国際社会は、診療所や学校の運営にしか関心がないことに、彼女は憤っているに違いない。

そのことを示すエピソードが一つ紹介されているが、残念ながら著者も翻訳者も気付いていない。

 

欧米からやってきたボランティアシンシア・マウンに言った。

「あんたはすでに有名人なのだから、どこの国でも受け入れてくれる。いい国に子どもを連れて行って立派な教育を受けさせれば、将来医者にすることもでき、子どもの将来が開ける」

タイ政府は、難民を住人として認めないし、彼らの学校も認めない。子どもたちは難民学校を卒業しても卒業資格はない。ボランティアの言葉はそのためだった。

彼女の返事は、「自分の子どもは自分たちがつくった学校に入れる」だった。

 

彼女にとって、同胞を見捨てて、自分や自分の家族だけが幸せになることなど考えられない。みなと一緒に、ふるさとに戻り、家族と共に平和に暮らせるようにしたい。診療所も学校もそのための一時的なものなのだ。

 ボランティアを美化する欧米人にとっては、そのことが理解できない。言いかえれば、余裕からの施しと人間ランキングに洗脳されてしまった人たちには、ともに生きて運命を共有するという考え方など理解不能なのだ。

 

日本からの支援者もいる。日本の支援団体から派遣されたスタッフたちの報告がまとめられ、本になって出版されている。(『国境の医療者メータオ・クリニック支援の会編、新泉社2019年)

日本の支援団体は、当面の課題を解決するために努力する。予算を獲得するために、日本政府にも笹川財団にも働きかける。それをよしとするか、とんでもないことだとするかは、意見の分かれるところだろう。


N


こんな本があります


 

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