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『マンガで考える障害者社会の壁

  妖怪バリアーvs.心のバリアー

  三島亜紀子[著] 平下耕三[監修]

  ☆☆☆☆★

 

 

この本を読めば、日本の障害者歴史を知ることができ、日本の歴史を庶民の側から見る上では極めて多くの示唆を与えてくれます。障害者福祉の原点を考えるキッカケになるかもしれません。

 

「ご迷惑をおかけします」という挨拶言葉が氾濫しています。これは、迷惑をかける側もかけられる側も、迷惑に対する感度が敏感になりすぎになっているからだ、と著者は見ます。ちょっとしたことでも赤ランプがつくから、社会が不寛容になるのです。

日本では電車の中で携帯電話を使えません。タバコバッシングも極端です。新型コロナウィルスの感染騒ぎで、咳をしただけで電車から降ろされたという話もあります。原発をどう考えるかは、賛成か反対かしかなく、話し合いはありません。

社会が不寛容になったから、社会との関りを断ってひきこもる人が増えます。他人の目を気にすることが介護殺人にもつながります。SNSでは、「いいね」か「死ね!」しかなくなります。

日本人は、過去を反省して現代を見るということがなくなったことも関係するかもしれません。単発的、発作的に、極端にけなしたり、また極端に誉めるようになります。そして、人を見たら、真っ先に敵か味方かを判断します。

不寛容の現代社会を生き抜くには、誰もが覚悟とがまんが必要になります。「障害者」は「ご迷惑をおかけします」と言い続けながら、ひっそりと生きていかなければなりません。

 

かつての日本は違っていました。

お遍路とは、イエから追い出された障害者たちが生き延びるために残されたただ一つの選択肢でした。巡礼者は一種の乞食でした。沿道住人たちはご利益を願って食事や寝るところを提供しました。そこには相互扶助のシステムが機能していました。

その相互扶助は、ギブ・アンド・テイクで成り立っています。かつて障害者は神様でもあり、妖怪でもあったとみることができます。

この本は、北陸を中心に全国にいた瞽女(ゴゼ)を詳しく紹介しています。ゴゼは視覚障害者であるとともに、アイドルでもあり祈祷師でもありました。地方の住人にとっては旅する人から聞く話が唯一のニュース源でした。各地を旅するゴゼから聞く話は、今でいえば新聞の代わりでもあったのです。

視覚障害を持った子どもは幼いうちから、一人前のゴゼになるよう訓練されました。生き延びるためです。しかしゴゼの境遇はつらく、多くは早死にしました。

 

ギブ・アンド・テイクのバランスが崩れ、一方が与えるだけになったとき、相互扶助は成り立たなくなります。そこから排斥が始まります。高齢になったらアイドルにはなれないし、病気で流暢にしゃべれなくなったら、アナウンサーもテレビコメンテーターもできません。それは昔も今も同じです。

物理的、身体的バリアは見た目でわかり、いくら共生の理念や理想論などを説教されても、そこには何とも吹っ切れないものがあります。それが心のバリアーとなるのです。

 この本は、そのもやもやしたものをはっきりさせることが、解決策につながる、とするのですが、残念ながら、ギブ・アンド・テイク理論でとどまっているようです。

今後の課題が二つあると思い整理してみました。

 

1.「健常者」と「障害者」を分けることに、なぜ疑問を感じないのだろうか。

そもそも「障害者」という言葉には、定義がありません。専門家たちが勝手に定義づけることはあっても、そこには社会的合意はありません。この言葉を使っている人でさえも、あいまいな認識しかありません。

例えば、「近視」とは身体的には遠方視力が低下している人のことで、「障害者」とは言いません。メガネをかければ何も不自由なく、社会で活躍できるのだから当然です。

義足の陸上選手マルクス・レームさんは、2014年のドイツ陸上選手権で健常者をやぶって優勝しました。ところが記録は参考扱いにされ、以来公式競技から締め出されています。その理由は、義足の方が人間の足よりも高性能だからだというのです。

何らかのハンディがあるから「障害者」として特別な扱いするという理解では、矛盾が生じます。レームさんの場合は「障害者」が「健常者」よりも好成績だから排除するのです。本人は「健常者」と「障害者」が一緒に競技する意義を訴えています。

同じように、身体などに障害があっても、日常生活に不自由を感じることなく、社会参加し活躍している人を「障害者」とすることには疑問が出てきます。 

生活が新しい言葉をつくるのだから、「障害者」という言葉も、現代人の生活を反映しているのでしょうが、社会に向かって発言する人や、政策を検討する立場にあるものは、それではすまされません。「障害者」について発言するなら、少なくとも「障害者」の定義づけが必要です。

しかし、「障害者」に定義づけをしても、社会的合意を得るのはとても困難です。なぜなら、何を「障害」とするかは、個人の価値観で決まるからです。


日本の社会は、空気を読めない人を「障害者」としてしまいましたが、他人の気持ちを理解できない人を「障害者」とはしませんでした。

他人の気持ちを理解できない政治家や厚労省の役人などは、健全な社会にとっては有害なはずです。ほんとうなら「障害者」と規定して、みなで正常な社会参加ができるよう支援すべきということになるでしょう。

また、労働に生産性だけを求めるなら、生産性の悪い労働者を「障害者」として別扱いしたくなるでしょう。しかし、労働=社会参加とみなすなら、「障害者」は、生産性では劣るけれども誰もが予想もできない視点からものごとを見つめ、斬新なアイデアを次々と発信し大いに活躍します。

「障害者」のことを役に立たず社会に負担ばかりかける、と思ってしまうのは、社会の側が、活躍の場を奪ってきただけかもしれません。

 

「障害者」の定義づけが難しいのなら、始めから「障害者」と「健常者」を分ける必要もありません。多様な価値感を認め合う共生社会では、障害は個性となります。「障害者」という言葉は、生活する上で必要なときや便利なときにだけ使っていればよいのです。

 

 

2.もう一つは、課題というよりも著者や研究者への要望です。

この本を読めば日本の過去がよくわかり、参考になります。ではヨーロッパではどうだったのだろうか、と疑問が出てきます。なぜなら、障害者福祉の発想そのものがヨーロッパ由来のものだからです。

 ヨーロッパでは、植民地からの収奪によって豊かさを享受し余裕が生まれました。自由になると、さらなる利益追求に走るか、「自由とは何か」の追求を始めます。

哀れむべき人をみつけたら、施しをするという発想は、余裕から生まれたものです。その施しの発想を欧米では、宗教に結びつけたり、「愛」や「正義」という言葉であいまいにしてきました。他人から収奪してきたけれど、その一部を施すことによって、精神の安定を確保してきたのです。

 植民地からの奴隷に人権はなかったのだから、「障害者」の人権はそれ以下だったに違いありません。西欧発の民主主義や人権、自由などの考え方は、植民地からさんざん収奪してきた過去や人種差別に封印したまま構築してきたものであり、その掛け声には胡散臭さを感じてしまいます。障害者福祉という言葉も考え方もその上にあるのです。

 

何故、西欧発の障害者福祉の発想そのものが問題視されないのでしょうか?

それは、西欧人や彼らを取り巻く人たが、勝ち得た利権や特権的立場を温存したいからなのでしょう。

アジア、アフリカ、ラテンアメリカの人々は、それを甘んじて受け入れなければならないのでしょうか。未来を描くには、現実を見極めなければなりません。現実を見極めるには、過去を反省しなければなりません。


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こんな本があります(リンク)



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