津久井やまゆり園事件について思うこと ―― 被害者と同じ立場に置かれた人たちの声明文に出会って
津久井やまゆり園事件について思うこと
被害者と同じ立場に置かれた人たちの声明文に出会って
『月刊むすぶ』という小さな雑誌に掲載された一つの声明文が、2016年7月26日に起きた津久井やまゆり園事件を、今、改めて考え直すきっかけを与えてくれました。
知的ハンディのある人たちが中心となって書かれたものでした。自分たちの生活から発した叫びであり、しかもその提言が、具体的、現実的であり、少しの努力で実現可能に思えました。
事件については、事件後、福祉関係の専門家や政治家、評論家たちが、いろいろな見解を語っています。しかし、これまで被害者と同じ立場に置かれた人たちの、不安の声を聞くことはあっても、しっかりとまとまった提言を聞く機会はありませんでした。
『月刊むすぶ』は、この事件が社会に問いかける問題は大きいとして、広く意見を募集し、『わたしたちはどこへ辿りついたんだろう』という特集で連続して掲載し、今回の第550号はその3回目です。
声明文は、自分たちのこれまで36年間の生活や活動を通して語られ、冒頭では、知的ハンディのある人たちも、収容施設を出て地域で当たり前の生活が出来るような社会であるべきだと提言し、それは十分可能なことだと訴えます。
そして続きます。
自分たちと同じような人たち19人が殺された。これは許すことができない。
「重度障害者は殺されるべきもの」ということなら、自分たちも対象者ということになる。
これは差別思想による殺人であり、そこから誰も目をそらしたり逃げたり、ごまかしてはならない。
地域生活を築き上げてきた自分たちだからこそ、声を大にして日本社会の問題点を訴える。
訴えているのは、すばる舎とすばる福祉会。神戸市に活動の拠点があって、現在メンバー80人、職員30人です。ここでのメンバーとは知的ハンディのある人たちのことです。
彼らは、事件について10回の話し合いを持ち、その内容をまとめました。
知的ハンディのある人たちが、社会に向かってきちんと発言しています。職員の支援があったからこそできたことでしょうが、堂々と団体名を名乗り、自分たちの意見を誰にでもわかる言葉で表明しています。社会の一員として十分に役割を全うしているのです。
これまで社会は、知的ハンディのある人たちの意見を聞いてきませんでした。福祉行政は、「知的障害者はこうあるべきだ」と勝手に決め付け、自分たちのやり方を勝手に押し付けてきました。彼らは初めて声をあげたのです。これは、日本の福祉の歴史に残る大きな一歩であり、それだけでも貴重な声明文です。
声明文はそれ自体が感動的で味わい深いものなので、本当は直接読んで欲しいのですが、『月刊むすぶ』を持っていない人のために、短くかいつまんで内容を紹介しましょう。あくまで私が読み取ったポイントに絞って、一部私の言葉に換えて要約します。オリジナルが必要な方は『月刊むすぶ』をご覧ください。
◎ 前半はメンバーとして訴えます。
彼らは事件の背景を鋭く追及します。
メンバーとして、被害者に同情すると同時に、自分たちに刃が向けられたものと受け止め、恐ろしく、悲しく感じた。
最も強く訴えたいことは、一度に多数が殺されたのは、収容施設だったからであり、この事件は収容施設だから起きたということだ。1600人が集団で収容されていることが問題である。
かつてと違って現在では、知的ハンディのある人たちが地域で生活を築いていくための支援システムが存在する。それにも関わらず、なお大きな収容施設があることが理解できない。
津久井やまゆり園は、収容者のほとんどが20年、30年の長期入所者で、施設も家族も神奈川県も、収容者が地域で生活できるように取り組まなかった。
そのような取り組みがあったなら、容疑者に差別意識が生まれることはなく、事件が起こるはずはなかった。
事件当日の当直職員9人は、何故入所者を守ることができなかったのか。自分の家族だったなら身を挺して守るのではないだろうか。
爆破予告の場合なら、警察は容疑者を直ちに逮捕する。津久井やまゆり園事件の容疑者は、大量殺人を予告していたのに、何故事前に逮捕しなかったのか。
殺された人たちは匿名で報道された。社会に存在しなかったように扱われた。
政府と自治体は、全ての市民が互いに支えあえる国になるようにしてほしい。
◎ 後半は職員としての意見がまとめられています。
ここも私の主観で内容をかいつまんで紹介します。
容疑者自身が新自由主義をまい進する日本社会の落伍者であり、教員を目指していたが果たせず、大麻におぼれ、「重度障害者」を見下し満足するために福祉施設に勤めた。人権感覚のない人間を福祉の仕事に送り込む社会は悲しい。
新自由主義は、福祉や介護の賃金を、公務員や教員などの半分から3割程度に抑え、他の職場では採用されない人たちが集まるようにした。そのことが福祉を貧しいものにしている。
私たちのメンバーは、普通の地域住民として生きている。メンバーと職員は対等の立場で毎日活動している。そこには、容疑者のような人物が入り込む余地はない。
私たちは、メンバーが自分の希望や願いを実現できるよう支援している。自分で決めることができるよう、知識を増やし自信を持ってもらうよう、学習活動も行っている。
メンバーたちが、人権に目覚め、自信ある人生を歩めるよう支援することが私たちの仕事であり、その仕事に誇りを持っている。
精神病院での長期入院や収容施設での収容生活は、人としての活力を奪う。私たちは、重いハンディがある人も地域で共に生き、共に働くことが出来ると確信する。地域社会でさらに人間性が深められる。彼らが前進することを実現するのが福祉である。
しかし新自由主義は、福祉の現場に営利主義をはびこらせた。そのような福祉政策は改めるべきだ。
津久井やまゆり園事件は、「重度障害者」の収容主義と、地域生活の推進を怠った、貧しい福祉政策の現実の結果である。
このように、声明文は知的ハンディのある人たちは地域の中で暮らすべきであると訴えます。そして、それが十分可能であること、そうすることで今回のような事件は起こらないことを、自分たちの生活体験の中から訴えています。
事件後、国や神奈川県などの検討委員会は、事件の経緯を検証し、主に各機関の情報共有、防犯カメラの設置等防犯体制の整備などが課題であるとしました。
マスコミでは評論家たちから様々な意見が出されましたが、目立ったのは、二度と同じ事件があってはならない、そのための方策として措置入院からの退院の条件を厳しくすべきだ、退院解除された後のケアーを十分に整備しなければならない、といったものでした。
それは、容疑者が事件前に指定精神科医の診断で措置入院をしており、わずかその10日後に、これまた指定医によって入院措置が解除されているという事実だけをとらえて、問題点をそらそうとしているように見てとれます。
措置入院とは、自分や他人に危害を加える恐れのあるときに、本人や家族の意思を無視してでも強制的に入院させる制度です。
危ない人間は社会から隔離してしまえば、社会の安全は確保されるという、人権感覚の欠如したお粗末で幼稚な考え方に基いています。
多くの精神科医や人権団体などは、この制度は患者の人権を無視するものだとして、制度廃止を強く訴えています。措置入院の問題は、日本の精神科医療のあり方に関わる根が深い問題なので、機会を改めて徹底的に論じるつもりです。
政府や評論家たちが本質的な議論を避けているのに対し、この声明文は、事件の本質を正面からとらえ、事件をくり返さないための提言まで出しています。政府や評論家たちを情けなく思うと同時に、情けない見解を、何の疑問も抱くことなく率先して報道するマスコミも情けないと思いました。
さて、声明文は「知的障害者」という言葉を、引用箇所などを除いて極力使っておらず、「知的ハンディのある人」という言葉に置き換えています。
「知的」とは何をさしているのでしょうか。
ここから私自身が考えたことを述べたいと思います。
多くの人々の理解は、「知的」とは知識が豊富で物事の判断が早いこと、とでも言えば、誰でも納得できるでしょう。
「知的障害者」とは、その能力が欠けている人たちのことのようです。すなわち、知識がなく判断力が劣る人たちのことです。知識がないのは知識の蓄積ができない結果であり、それは記憶力が乏しい結果です。ですから、「知的障害者」とは、記憶力と判断力が乏しい人たちのことで、それは、知能検査の成績が悪い人のことだと言ってもよいでしょう。
ちなみに、認知症患者とは、本人や家族が診断するのではなく、認知症専門医にかかり認知機能検査で認知症と診断された人のことです。
では知能検査とは何を検査しているのでしょう。
実際にやっていることは、簡単な作業のスピードを検査しています。言い換えれば、パソコンの計算速度やメモリー容量を測定するようなことをやっているのです。
すなわち、知能検査とは、人間をパソコンと同じようにみなし、人間を性能評価してランク付けするものです。しかも限られた方法での検査ですから、本当に知能を正しく評価できている保証はありません。
例えば、知能検査に興味が沸かずやる気の起こらない子や、自分の世界に夢中で他人のことに関心のない子については、間違った情報を与えます。
「知的障害者」とは、実際に知能検査を受ける受けないは別問題で、生活などを通じての情報を手がかりに、知能検査と同じような基準で診断されています。
そもそも知能とは何か、と問われても、人によって答はまちまちです。
ですから、「知的障害者」というレッテルは、何者かの都合のよいように使われているだけのことです。
独特の感性と人間洞察力で多くのファンがいる自閉症の作家がいます。
本人は自分を普通の作家として見て欲しい、たまたま自閉症だっただけのことであると訴えますが、ここでは作品を堪能することが目的ではないので、このように紹介することをご容赦ください。
彼は、自分の表現方法を発見するまでは知的障害者とみなされてきました。
もし、自分の表現方法が発見できなければ、本人はそうじゃないと叫びたくても、知的障害者として一生を終えることになっていたでしょう。
自閉症の多くは知的障害を伴うとされてきましたが、周りが知的能力に気が付かないだけの場合も多いと思われます。同じことは、知的障害とされている人全てに当てはまるかもしれません。
一般の理解とは別に、「知的障害」という言葉は法令上の用語です。
かつては「精神薄弱」といわれ、精神の発達の遅れによって社会への適応が困難な子どものことを指していました。この言葉が差別用語だということで、1999年から法令上は「知的障害」ということになりました。
「精神薄弱」は知能検査によって診断をつけられ、重症度によって特別な施設や特別学級などに振り分けられました。
今の政府の「知的障害者」に対する扱いは、前世紀の「精神薄弱」と呼ばれていた時代から変わることなく、何ら進歩が見られません。政府はいつまでも学習しないし、自ら変わることはないのです。
何故、この社会は「知的障害者」を診断しなければならないのか。
それは、社会から排除するためです。
声明文では市場原理主義という言葉を使っていますが、この社会は、人の価値も、ものの価値もおカネで判断します。おカネが価値判断のものさしです。
カネ儲けは競争ですから、人はスピードと効率を求めます。スピードや効率までもがおカネで買われます。
そのような社会では、理解の遅い人、学習の遅い人、進歩の遅い人、表現の遅い人は邪魔になるのです。共に暮らす家族に対しても、そのような人は足手まといになると吹聴するのです。
そのような人たちに「知的障害者」というレッテルを貼り付け、社会の厄介者として排除するよう仕向けているのです。
レッテルを貼り付けるために必要だったのが知能検査であり、知能検査成績を人間評価のものさしとしたのです。
そして、何事も遅い人たちをあからさまに排除することはできないから、福祉の名の下に収容施設に集めるシステムをつくり上げたのです。
声明文ではっきり言われているように、収容施設は人権を無視します。収容される人たちは地域で暮らすことが十分可能で、本人たちはそれを希望しています。また、そうしてこそ彼らは、後で述べるように優れた才能を発揮して輝くことができるのです。
彼らが地域で生活するには、周りの少しの協力が必要です。間違った知識が吹聴されてきたため誤解が多いので、ちょっとした心得が必要です。
理解力が乏しいと思うのは、説明の仕方が悪いからです。
ゆっくり時間をかけて説明すれば、少しづつ理解します。
反応が遅い人は、待っていればよいのです。
作業手順の学習能力がない人は、十年もかければ大丈夫です。
「知的障害者」と言われている人たちは、ものごとがスローテンポなだけです。
一緒にスローテンポになれば、彼らに何のハンディもないことに誰もが気付きます。
「知的障害者」といういやな言葉は廃止して、スローテンポな人たちと呼ぶことにしましょう。
スローテンポな人たちは、周囲を幸せにする特別な才能を持っています。
相手をスローテンポにし、ゆとりを与え、普段見過ごされている素晴しいことに気付かせてくれます。
うそをつかないし、他人を裏切ることはありません。
素直で感情をそのまま表現します。
自分をかざることを知らないから、まさに人間のありのままの姿そのものです。
ペット業者は、ペットのいやし効果を宣伝し、孤独な人はペットにいやしを求めますが、孤独な人、人間嫌いの人ほど、身近にいるスローテンポな人に声をかけ、お友達になればよいのです。
身近にスローテンポな人との接触がないから、社会が寂しくなり、ハイテンポの社会に付いていけない人は孤独になるのです。
そもそも生活に支障がなければ、障害とかハンディとは言いません。
近視の人は、眼鏡をかければ困ることがないから障害者とは言いません。
生活するのに支援が必要だから障害者なのでしょうか。
そんなことではありません!
この社会に、他人の支援を全く必要としない人などいません。
オオカミに育てられた少年も、オオカミの助けが必要だったのです。
もし、無人島に一人で住んで、誰の支援も受けず一生をそこで暮らしたいと願っている人がいたなら、そういう人こそ、社会性を回復するための支援が必要です。
人は、もちつもたれつだから「人」と書くのです。
私は、津久井やまゆり園事件は、スローテンポの価値を忘れ去ったこの歪んだ社会が引き起こした事件だと見ます。再びくり返さないためには、人々がスローテンポの価値を再認識し、ハイテンポな現代社会のありように抵抗して、スローテンポな人たちと共に暮らす地域社会をつくり上げることだと確信しました。
それは、この声明文が訴えていることと全く同じです。
2016年12月19日
スピノザまだまだ
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