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『日本の体罰』アーロン・L・ミラー著 石井昌幸他訳 ☆☆☆★

日本の体罰

  学校とスポーツの人類学

 アーロン・L・ミラー

 石井昌幸他訳

 共和国 2021年 3600円+税

 ☆☆☆★


 米国の日本研究者が、具体的事例や資料を通して、日本の体罰とその思想的背景を探る。

 海外では、子どもの道徳規範の形成について、宗教コミュニティーや家庭の仕事となっているのに対し、日本では公教育が担っている。ときには規律訓練が体罰という方法をとる。その体罰の暴力性が問題にされる。

 日本の体罰は儒教、武士道、軍国主義という日本の独特の文化からくるとする考え方がある伝統的な秩序を重視し、既存社会の上下の序列を受け入れる。そのうえ、同一性志向が強く、みなが同じように考え、同じように行動するのが日本社会の特徴だから、同一性を受け入れない人間は排除される。

 それに対し著者は、それは日本だけのものではないとする。どの国においても、程度の差はあるものの同じような伝統や文化がある。日本の体罰暴力は、日本文化のせいではないと主張する。

 さらに日本人も多様である。厳格な日本に対して寛容な西洋という対立構図の押し付けに反対すると主張する。

 実例やエピソードが豊富で理解しやしい。この領域の先達たちの研究成果をよく調べ整理しており、文献や他の研究者の言葉を駆使して話を展開する。

 話題が豊富だから、知識を増やすにはよいと言えるが、その反面、引用ばかりで自分の言葉が少ない。繰り返しが多く、論理が整理されていない。

 おそらく著者は、よく勉強しているが、それが自分のものにはなっていないのだろうと思う。結局、著者は、日本の体罰は日本の文化のせいではないと言っているだけで、熱く主張するものがない。

 この本は、そんなことを期待して読むのではなく、日本の体罰というものに対して、研究者たちの世界ではどのように扱われているのかを知るために読むのがよいだろう。


著者が最も傾倒しているのが、フーコーである。フーコーは、日本の体罰は、「権力の行使」である、とする。

フーコーは体罰を、「暴力としての体罰」と「権力行使としての体罰」の二つに分ける。体罰を受けるものにとって、前者は、受身的であり、強制、屈服を迫られる。可能性も閉ざされる。それに対し後者には抵抗の余地があり、自分の行動を自分で決めることができる。

権力行使としての体罰」は、人間の主体性を認めつつも精神をコントロールする。体罰を受けるものは、他人とは違う自分を区別して、状況を構造化、システム化し、最後は自分を服従させる。こうして、規律を叩き込まれ受け入れるようになる。だから、体罰の一部は正当化できるとする。

フーコーがそこまで言っているとしたら、論理が強引で無理がある。例外はいくらでもある。結局は、ケースバイケースだ。このような議論は、具体的な事例を個別に挙げて議論すべきである。

例えば、放課後の部活における厳しいしごきも、「お陰で甲子園まで行けた」と感謝する生徒もいるし、しごきに耐えられず学校をやめる生徒もいる。アスリートを育てるコーチの扱いは、選手によって違ってくる。相撲部屋における弟子の指導は、相撲部屋によって違う。それらを一律に決め付けることはできない。

また、日本の体罰を論じながら、日本以外の国における体罰については、ここでは触れない。外国の体罰は全てフーコーのいう「暴力としての体罰」なのだろうか。著者はそこをごまかす。本のタイトルが「日本の体罰」であるから、ごまかさなければ、体裁が悪いのだろう。


 そもそも、教育しつけの目的は、子どもを社会に適応させるためである。その社会が競争社会であり、力や権力を容認する社会だから、そんな社会に適応させるために力の行使が容認されるのである。そこでは、体験することによって少しづつ現実社会に適応させるという理屈も通用するのである。

 力の行使の中で、手っ取り早く効果的な手段が暴力であり、教育の場では体罰という。体罰に反対する親や教育者であっても、体罰を伴わなければ理不尽な力によるいじめには関心がない。

 当然ながら、目指す社会が「力が支配する社会」ではなく「共生社会」なら、このような体罰の論理は全く通用しない。目指すべき社会をはっきりさせなければ、体罰の議論も始まらない。

 著者の表現に現れる、こじつけ、独りよがり、押しつけには、植民地時代以降、力によって世界を強引に支配してきた欧米支配の思想を感じる。


 体罰、暴力、力の行使の問題を素直にこう考えてはどうだろうか。

 体罰は一種のコミュニケーションである。教官が生徒に何かを伝えたい。伝わる場合もあるし、伝わらない場合もある。体罰の効果はケースバイケースである。

 もちろん体罰は暴力の一つである。暴力も一方的、強制的なコミュニケーションであり、意思伝達の手段の一つである。相手に対して、自分の意思を行使する。言葉で伝わらないことも、強引に強制する。

 暴力の行き着くところが殺人であり、国家間の場合を戦争という。

 状況や場所によって暴力とはいわず体罰といわれるが、違う点は、体罰とは、コミュニケーションの中身が、教育しつけ、訓練だということになる。そこには、憎しみ、排除から愛情、期待、慈しみまで、様々な感情が伴う。


 服従させるには暴力が効果的である。それは、相手よりも強いことが条件となる。

 利益追求型の個人主義が支配する社会だ。その行き着く先は、カネがカネを生み、力が力を生む世界である。強いものが弱いものから収奪するときには、権力が使われる。強いものがますます強くなり、弱いものを支配する。手っ取り早く服従させ、支配するときには権力よりも暴力が使われる。

 そんなことは、民主主義と多様性が尊重されると常に叫ばれる現代社会においても、ニュースに触れるたびにわかることである。デモが鎮圧できなければ軍隊を出動させる。選挙に勝てないならクーデターを起こす。文句を言ってくる国に対しては戦争をしかけ国を滅亡させる。

 共生社会を目指すなら、強いものも弱いものも互いが理解し、話し合って、互いのハッピーを目指すようでなければならない。そこでは当然、課題をみつけ解決しようとする。人間にランク付けはしない。付き合いは立場を超える。

 共生社会では、教育、訓練、しつけも共生社会に合うように変わらなければならない。どのように変わるか。

 食料が豊かで、何ら不自由のない原始社会や、江戸時代の町人たちの暮らしにヒントが見える。少なくとも、暴力で支配し強制的に押し付けることはない。さらに模索が続くだろう。


N

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Keyword : 日本の体罰 アーロン・L・ミラー 石井昌幸 暴力 権力 教育 しつけ 文化 フーコー

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